昭和四十三年八月二十八日 朝の御理解 第七十五節七十六節
X 御理解第七十五節「人を殺すと言うが、心で殺すのが重い罪じゃ。それが神の機惑にかなわぬ。目に見えて殺すのはお上がってそれぞれのお仕置にあうが、心で殺すのは神が見ておるぞ。」
X 御理解第七十六節「人間は人を助けることが出来るのはありがたいことではないか。牛馬はわが子が水に落ちていても助けることが出来ぬ。人間が見ると助けてやる。人間は病気、災難の時、助けるのが有難いと心得て信心せよ。」
この七十五節、七十六節に続いて人を殺すとか、人を助けるとか言うところがありますね。七十五節の冒頭にも人を殺すと言うが、こういう人を殺す心で殺す。七十六節には人間は人を助けることができるというである。なるほど、私どもは人を助けることも出来れば、人を殺すことも出来る。
ですから、おかげを受けていくというお徳を受けていくという人はね、結局人を助ける働きをするということです。人を助ける働きをするから、おかげを受けるのであり、お徳を受けるのである。そしておかげの受けにくい人、受けられない人、本当のおかげにならない人は人を殺す働きといいましょうかね、心で殺す、人を傷つける、言うなら、こりを積ませるとでも申しましょうかね。軽く言うたら、こりを積ませる。これが、重い罪じゃ。それが神の気迫に適わぬ。それがね、神様の気迫にかなわぬ。
神様の心に叶わぬ。心に叶わぬことを内容を持ったりしておったりしてなるほどおかげの受けられるはずはないのですよね。目に見えて殺したり、傷つけたりするのは、お仕置の法というものが、人間の世界にありますから。これはまあ、それで罪を償いは出来ぬにしてもまあ、それは、そこに許されるけれども心で殺したり、心で傷つけたりするのはね、神が見ておるとおっしゃる。
だから、神様のお仕置を受けなければならんのですから、例えば、いうならね。様々な難儀に直面しておると言う場合、一応はです。自分のそういうようなお仕置を今受けておるんだと思わないといかんですね。病気の苦しみ、人間関係の苦しみ、ほんなこって死んだ法がましというような難儀を持っておるとするならば、そういうお仕置を受けているのです。神様が見逃しなさるはずはない。開き逃しなさるはずがない。
私は信心させて頂いてね。そう言うところがわからして頂き、そういうところが改まらして頂くところにね。いわゆる有難いことになってくると思うのですよ。人を殺すと言うが、心で殺すのが重い罪じゃ。これは私は人を殺すとおっしゃってあるけれども人だけじゃない事柄を物を壊したり殺したりしてみると、なるほど茶碗一つ壊しても神様あいすみませんというものが、なからなければいけないことを感じますよね。
又、事柄を壊す。いわゆる、破壊主義者である。例えば、神様の思いからすれば、これによって氏子助かってくれよ。これによって改まってくれよ。磨いてくれよ。これによってお徳を受けてくれよというようなたとえば、問題とか、事柄といったようなものをです。私どもがそれを全然ただ難儀だけを見たり、したり、もう事柄を壊してしまう訳になるのですね。そういう、いうならば、おかげの受けられる手を神様が差し伸べて下さってあるのを払うようにある。それは、やはり事柄を殺してしまう訳です。ですから、これはやっぱり重い罪になりますね。
これによって一徳受けさしてやろうとなさっておられる事柄をです。それを反対に受ける。もうそれをめちゃくちゃにしてしまう。めちゃくちゃにそれをいわば、跳ね返すとやはり傷つけたり、壊したり、殺したりする。そう言う事がね、神の気迫に適わぬ。私どもは本当に信心のない間はそこのところが大変なうかつもうかつ、大うかつである事を思いますですね。
人を殺すとか物事を壊してしまうとか、物を傷つけたり、壊したりするという事がどんなに神の気迫に叶わぬかと言うことをわからして頂いたら、今度はそれを反対に信心とはその一切、生かそう生かそうとする働きの出けれるおかげを頂くことである。
人の心を生かす人の心を傷つける。もうここにおかげの受けれる、受けられないがはっきりしてくる。お教えの中に心配する心で信心せよ、というてありますよね。心配する心で信心せよ。実はね、心配を致しますとね。おかげが壊れる。おかげが崩れる。折角、神様がどうぞおかげを頂かしてくだされーというて願うから、神様がおかげを*えてくださる。おかげを差し向けてくださるところが氏子の心配心、不安な心がそのおかげをちりに壊してしまう。もったいない話でしょう。もったいないどころかね。それがお粗末になり、御*礼になるのです。
そこで心配する心で信心をさせて頂く、心配する心で本気に修行させて頂く。心配であれば、心配であるほど、神様に打ち向かう。修行も本気でさしてもらう。そこから、不思議に心配が段々薄くなってくる。心配がなくなってくる。心配の雲がはらわれてくる。そこにおかげを丸くそのまま生かして受けることが出来る。そこで心配する心で信心せよとおっしゃるがね。心配ではない。それを反対に元気な心で有難い心でそれを受けていけれると言うことは、これはそのおかげをね。援助することになる。神様の働きをですね。スムーズに刷ることが出来るというとおかげを生かすことが出来る。おかげをスムーズもあらしめることが出来る。ですから、神様の働きを助けるわけですよね。だから、これが神の気迫に適わぬはずがない。
七十六節に人間は人を助けることが出来るとおっしゃるが私どもは神様のそうした働きを助ける、人間も助けるですね。神様の働きも助ける。同時にここに人間を助けることが出来ると言うことをおっしゃっておられるが、助けるということは自分が心配、苦労しておって人を助けれるはずがないですよね。そうでしょう。自分が心配、苦労し自分が悩み、苦しんでおってです。人を助けれるはずがない。溺れておるものを助けたり、自分自身も溺れよって人を助けられるはずがないじゃないか。
だから、人を助けるという、人を殺すと言うこと、人を助けると言うこと、ここでもう一つ思われること願われること、七十五節から人を殺すというが、心で殺すのは、とおっしゃるが今度は反対にね。こちらが殺される立場になる時、反対に人から傷つけられる場になる時、これはね、自由自在にそれを受けていけれるというか又不死身の私になるというか、そういうおかげを受けなならん事もこの七十五節から感じますね。人を殺すというだけでなく、殺される立場になって人から傷つけられる場合。
何時でしたか、夏の夏期修行の中に頂いた御理解の中に「心のスピードアップを願え」と言うところがありますよね。「心のスピードアップ」心のもう即切り替えられると言うこと。もうどんな例えば腹の立つような場合でもパッと、それを*びに変えて行けれるという事。心のスピードアップを願えという事。傷つけられたままではいかん。心が真っ黒になる時にはもう心が殺されたのだ。そういう事を平気で人を傷つけたり、殺したりする人があるが、そういう人に出会って傷つけられた時に殺された時です。殺されようとする時に殺されんですんでもやっぱり、ここでは覚えておかなければならん事をここから感じるですね。ここんところを大事にしなければ、七十五節に進まれない。心のスピードアップを願う。
自由無得の心と言うか、または不浄の心、壊れない心、自分の心をどんな場合でも、心を有難いという心から、壊さない心、不元の心、自由自在、自由無得の心、自分の心をコロコロと有難い方へ転がしていくことが出来る。いわば、右と思えば、又左、牛若丸と弁慶ではないですけれども、どんなに打ち込んで来ても打ち込まれてもそれを右へ左へと交わしていけれる心、そういう心を鍛えなきゃいかん。それをまあ一つの日頃の教えを持っていうと馬鹿をあほになることです。全然こっちには答えてとらん。向こうは相手の心をグサリと刺したつもりだけれども、こっちは全然傷ついていない。あ、もうこの人の致命傷と思われるように相手から見たら、信心は止まってしまうのじゃあなかろうかというような事に直面してもです。どっこい、それを有難いものとして受けていけれる。不元である。壊れてないのである。
人を殺すと言うことがです。重い罪である。しかもその殺すということは心で殺すという事はなお重いのです。これは心だけじゃあありませんよね。口で殺す人がある。口で壊す人がある。口で傷つける人もある。いわゆる口の悪い人はそうである。心にもないことを言うて人を傷つける人があるでしょう。心で殺すということは、たとえば、恨むとか憎むとかいう事は心で殺すという事になる。だから、人から憎まれたり、恨まれたりするような場合にあってもです。
その恨みの念とか、昔あのわら人形に五寸釘ということがあるでしょう。相手の命を祈り殺そう。そういう激しい、例えば恨みというようなものが、祈りとなってこちらに例えば、迫ってくる場合です。本人が病気をしたり、やはり死んだりするような事があるんですよね。だから、そういうようなものを受けつけない心、そういうものを全然受けつけない人が*びの心、不元の心、どの様な場合でも壊れない心、そう言う心を私どもが信心によって鍛えていく。それを受け、完全なもの完全なものへとしていく。いわゆる、和らぎ、喜ぶ心というものをいよいよ高めていく。
ですから、憎む場合はもっと、それは殺すことになる。恨むことは相手を殺した事になる。今度は恨まれる。憎まれる。そういう時を私どもがそれをやはり受けこなしきらんとやはりこっちが殺されたり、こっちが傷つけられたりせなならん。私は思うのにね。人間は人を助けることが出来るとこの七十六節にありますね。人を助けることが出来るという心はですね。そういう心だと思うのです。そういう心を頂かずしては、人を助けられない。人から、傷つけられても傷つかんで済む。人から、それこそ一思いに殺そうというような鋭い思いを向けられてもです。それでは、こちらが、一つも死んではおらん。心の中が傷ついていない。そういう私はね、おかげを受けなければね。人を助けるという事は出来ないと思う。
いわゆる自由無得、自由自在に自分自身が泳げて初めて溺れている人が助けられるように、自分が自由自在に船をあやつらして頂けることが出来たら、初めて人を助けることが出来るように溺れている人を助けることが出来るように、私どもがそこんところのおかげを頂かにゃならん。人を殺すと人を傷つける。信心をしておりましても私どもはうかつに人を殺したり、傷つけたりしておることがあります。猛反省しなければいけません。同時に殺されかかった時、傷つけかけられた時にです。それを傷つけられんで済む心、殺されんで済む心、一切を合掌して受けていこうとするおかげをですね。それをいつも頂かしてもらえるという心の準備といおうかね。ゆとりというものを持っておらなければならないという事。
「人間は人を助ける事が出来るという事は有難いことではないか。」とそういう心にならせて頂けることをです。有難いと心得て信心せよ。最後にあるでしょう。今までは殺したり、傷つけたりしよったのが、おかげを頂いて今度は反対に殺されかかっても傷つけられかかってもそれを傷つけられんで済み、殺されんで済む力を頂いただけではない。その力をもって人を助けることが出来るということはありがたいことではないかとおっしゃるようなおかげを頂けるようになった。そこに七十六節の最後にですね。人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心せよ。そういう心がだんだん自分の心の中に出来ていきよるという事を有難いと心得て信心せよとこうおっしゃっておられる。
何年何十年信心しよっても人を傷つける、人を殺しよったぶんじゃあ、たとえ人を助けよったっちゃです。同じ事。殺したり、生かしたりしよるですから、もう殺さんですむだけではなくて、こちらも殺されんですむ。傷つけられんですむような力を受ける。そういう力をいわば、七十五節から七十六節に持っていかにゃいかん。人間は人を助けるということが出来るというのは、そういう力を持って初めて人を助けることが出来るのである。
昨日、熊本の富永先生がお参りになさった。とにかく、まあ月に一回か二回お参りになるのですけれども、もうテープを借りてから返すときに、先生が言われる。ご夫婦とも教師の資格を持っておられますから、先生が弱いから奥さんが参られます。「本当にこれを返すのが惜しい」って。ただただそれを申されます。ですから、もう開けるでけ頂けるだけそれを頂かれる。月に何巻かずうっと借りておいでられます。もう何べん聞いても何べん聞いてもいよいよありがとうなってくる。だから、これを持って来る時に今日も先生がそげん申されます。返すのはもったいなかと申されます。けれども、返さなければ、次のが借りてこれんけんでと言うてから、先生が申しますとこう言われる。
せめて、皆さんなんかは、いっぺん御理解頂いたのをいっぺんだけだから、帰ってから、それを繰り返し繰り返し頂いておる人の方がかえって有難いものを頂いておられるかもしれませんね。
昨日いろいろお届けなさいます中に先生が御神殿に出て御祈念しておられる。ところがね、z御神殿の端の方に間違いなしに三代金光様と思うて金光様がそこにお座りなっておられる。ハッと思うてから、目を開けたところなんと合楽の親先生じゃった。どんなに見てもどんなに見ても合楽の親先生じゃった。しかももう実に心配そうな顔をしておられる。何か合楽に起こっとるかも知れんからその事をお伺いしてくれということであった。
それはね、私が心配しよるというのは、うちに何か困った事が起こったから心配しよるのじゃあなくてこのような思いで何時も白奈久教会の車を親先生が心配して下さっておるんだ。富永先生の体の事を心配して下さっておるんだ。ようやく布教所から、教会にならして頂いたがおかげでどういうふうに立行きよるじゃろうかと何時も親先生が心配しておって下さってるんだ。その心配しておって下さるその事をです。私は見せて頂いたのじゃあなかろうかねと昨日申しました。
「心配する心で信心せよ」心配する心で信心するところから、心配せんで済む。おかげを受けられる。心配するという事がそれは、そのおかげの頂ける元である元を壊したり、殺したりする事である。心配する心で修行し、心配する心で信心させてもらうところから、そこからその問題を生かす事が出来る。その難儀と思うておった。その難儀を神愛とわからしてもらい、その神愛によくしておかげを受けて行くことが出来る。それどころではない。今度は人の事が心配してやれる。自分の事じゃあない人の事が心配してやれる。人の事が祈ってやれる。人を生かしていく所の働きが出来るというようになる。私は正しくそういう事だと思うのです。
自分の事が心配、いっぱいで人の事が心配してやれるはずがないもんね。今日私はその御理解七十五節と七十六節のその両方の冒頭にあります「人を殺すと言うが」というところ、それから、七十六節の「人間は人を助ける事が出来ると言うことが有難い。」とおっしゃっておられる。人を殺すことも出け、、いわば、生かすことも出来る、助ける、それが私どもの心次第で出来る。どちらかが神の気迫に適うか。*が頂けるかという事はもう分かりきった事。そんならば、本気で一つ人を助ける事の働きが出けれる様な信心を頂こうと先ず皆さんが願わにゃあいかん。それには、先ず、自分自身が例えば、傷つけられかかっても殺されかかっても殺されんで済むだけの力を受けなければいけない。そこに願われるが心のスピードアップである。
そういう場合に自分が傷つけられんで済む。おかげを頂けていくその心でもって人を助けるという事が言える。そういう事が段々稽古が出けて本当に助けられるようになるという事を有難いと心得て信心せよ、と。七十六節の最後に教えて頂いておりますね。それが出けるという事が有難いと心得て皆さん信心させてもらわにゃいけませんね。どうぞ。